« マーメイドの脚。 | メイン | ばっきばき »

›2007年12月14日(金)

とはずがたり…。

今年のまとめ、に入ろうとしているんですけど(別名、下書き大放出+α)、去年予告だけして何も書かずに年越して今に至る、ので多くの人はきっと期待してないと思っていますがいかがでしょうか。今年は何か違う!という終わり方ができるといいな…(願望)。そんな事言っても言わなくても、明日には忠臣蔵討ち入りの日ですよ。つまり今年も残り2週間強、か…。

えーっと、その「まとめ的エントリシリーズ」に入る前に、ネタ振りを頂いたのでまずはそちらから。

私信って嬉しいですよね。
両方を知っている(読んでいる)場合は「ああ、これはこう繋がってる話ね」と思えて、それはそれで楽しい。家政婦は見た!じゃないけど、傍観者としての面白さもあると思います、よ。疎外感に繋がる場合も無きにしも非ずだからその辺りが難しいですけれど。あと、読んでいる方は、外野だという認識をしっかり持ってないと危ないかな。外側から見ていると自分も仲間内にいるような錯覚を覚えたりするからね。見えている部分は全体図ではないし縮図でもない、氷山の一角であることを知っておかないと、痛い目を見たりします。ネットに於いては、その距離感が難しい。物心ついた頃からすでにネットが存在していた人なんかはひょいっと目測できるのかな、どうなんだろう。

そういえば元々私は、他人から知人、そして友人になっていく過程で距離感を縮めて行く行為が非常に苦手です。むしろ、最初の一歩に戸惑うんです。重症です。
以前何度かやりとりして、その後で共通の友人に紹介されて実際にお目にかかって、再度お目にかかる機会も経て「そろそろお友達と言ってもいかなぁ?」と思った方へのメールに「お友達」と文の流れで書いたら、あなたは「お知り合い」だから、と強調するカッコ付きのコトバを返信で頂き、返信があったものの、自分が一方的にメールをしていたに過ぎなかったのだと思い知りました。その傷は今もかさぶたみたいに残っていて、見ず知らずの方にメールをすることやハジメマシテでお目にかかることが怖いというトラウマも少し、あります。

だからblogなどをこっそり拝読している時にメールしたいなぁと思っても、ぐっと飲み込む事が多々あります。拍手くらいだったら「えいっ」っとできる事もあるけれど、それも一大決心、いわゆるキヨミズノブタイカラトビオリルシンキョウ、です。だから、私信(拍手)に私信でお返事いただけるのってやっぱり嬉しいし、一方で経験を踏まえて調子に乗ったらあかんよなぁ~とも思うので、一往復で基本の書簡は終わるのだ、と思うことにしています。続けようとしてはいけない気がしてしまうのね。だから道が途切れる。そんなこんなでお友達どころかお知り合いへの道さえ遠い。ていうか人間関係に王道なんてないんだよね。友達って作るもんじゃないし、なるもんでもないし、自然の流れで生まれるものなのだろうと。そんな事は学生の頃に悟れよ!ってツッコミたくて仕方ないような事を、今更悟っている青二才。人間関係力は激低の内弁慶(よくツンデレと言われます…)だから仕方ないか、と諦めの境地?ダメじゃん。

そんなのイイワケにもなりませんが、去年と今年に頂いた長文メッセージ全部にはお返事できていない現状です。しっかりお返事書きたいって思って温めているうちに数ヶ月が過ぎてしまった、なんていう本末転倒な事も多々あります。多々ってところがダメ過ぎなのですけれど。
懇意にして頂いている方だと、長らく返事がなくてもいきなりぶちっと縁が切れる事は少ないと思うけれども、度重なると縁も細く細くなっていくし、所謂「年賀状だけのお付き合い」的な遠さになってしまうことを当然危惧しています(だったら早よ返信書けよ)。そして初めてメールを頂いた方に対してすぐに返信ができないというのは、イコール出逢いの機会を失っているんだろうなぁ…。もったいないよね。せっかくのご縁なのにね。アンケートの返信が遅かったこともしかり、今後はその辺りのトロさを改善していかなくっちゃダメだなぁ…。

…って、長文書く時はいつもの事なのだけれど、話が脱線して来たなぁ。

脱線ついでに、常々より「人懐っこさは一つの才能」だと思っているのですが、うちの相方は、相手との距離を縮める事をふわりとやってのけます。確かに人によっては戸惑うくらいであろうフレンドリーさです。でも、決して擬音で表した時に「ずけずけ」とか「ずかずか」ではないのね。「ふんわり」とかそんな感じ(余談ですが、彼女がとある方から「ふかふかさん」という呼称を頂いていたのを見た時、余りに言い当てててすげーなって思いました)。それでも、人によっては予想外の展開に「何?何なの?まだそんなに仲良くなってないでしょ」って言う戸惑いと共に入り口のシャッターを下ろしちゃう人もいるだろうなって思う。そのシャッターがぴしゃりと堅ければ、ふんわりと寄った彼女はそこで止まります。多分、ちょっと悲しい顔をして。そもそも私だって、最初は相方の軽やか過ぎる歩み寄り(むしろ駆け寄り)に戸惑った経験者なのですが(笑)。でも、結局のところ相方、むしろ周囲からセット扱いされるようになる程の仲になったのは相方の資質の賜物なんだろうなと思うんですよね。

「友達の友達は皆友達!」という考えは、騙される事が少なからずあるこの世界に存在する、頑ななセキュリティ心でシャットアウトされたりする。歩み寄りに対して最初から線引きをしているなんて至極勿体ない話だと思うのだけれど「友達の友達は結局のところ友達の友達である」と考える人にとってその存在は、一線の向こう側だと位置づけてしまって新しい関係が始まりもしない結果になるかもしれません。いや、私も比較的シャッターが重いタイプだから一線を引く気持ちはよく分かるんですけれどね。

私がネット上に文章を書き流しているのは、対身内に発信していると嘯きながらも自分はこういうヒトだよと伝える相手を不特定多数に設定した私信としての役割もあるよね。自分から誰か他の書き手にアクションを起こした時、もしくは誰かがアクションを起こしてくる場合、ハジメマシテと自己紹介を改めてするよりも、綴り続けている文章がその人を一番伝える気がする。まるで壮大で詳細に書き込まれた釣書…別にそんな事いつも考えて綴っているワケじゃないけどね(笑)。

結局、私信以外の何でもないよね。画面の向こうには誰かがいる。知っている人もちょっとだけ知っている人も一方的に知っていると思っているけど実はお互い一方通行なだけの人も、全く知らない人も。不特定多数の存在は別に強く意識する必要はないけれど(意識し過ぎたら何も書けなくなるんじゃね?)それなりに意識して言葉を選んで綴ってる、つもりです、という私信でした。