今日は会議でエラい人がいないチャンス(コラ)なので、ガシガシ書くつもりだったんだけどなぁ…。
言葉の怖さとか、そういうのを感じて、ちょっと二の足を踏んでいます。別に自分の綴る文章に影響力があるなんて大それた事を思っているワケではないんだけれど。それでも。
何だか最近、自覚しているのは、色々と考えたとしてもそれを余り書かなくなったなぁと云う事で。
サイト始めたばかりの頃は、考察カテゴリのようなものもあったんだけれども、いつの頃からかそういうのを書く事を控えるようになりました。
自分語り、って世間では分類するのかなぁ。私はこの件に関してこうこう思っています、という事をつらつらと書き連ねて戦う事に疲れた…って言うとちょっと乱暴過ぎて微妙にズレているんだけれども、話しても話してもそれぞれが違っていてアタリマエで「そういう考え方もあるよね」という事にならず、喧々囂々の雰囲気になる位だったら、そっと心に仕舞うよ、と思っている状況であったりします。意見をひとつにまとめましょう!なんていうのもノーサンキューだったりするからなぁ。うん、基本はぐれ気味だからね(笑)。
それは、突き詰めると誰かに自分を理解して貰おうとしなくなったのかなぁ。
だって、つまり全く面識のない誰か(=こちらの発信をこちらが認識していないけれど受信している誰か)に向かって意見を述べて分かってもらう努力を諦めてしまった。だから、新しい出会いが少なくなったのは、それに比例しているの…かも?こちらから発信していなければ、受信に対しての反応も派生しないじゃん?まぁ突き詰めたら「自分の事は伝えたい人に誤解なく伝われば満足」ではあるんですけれど。いや、わんこの真似じゃなくて(ホントに!)昔からその傾向があって、でも最近、顕著。ひとことで言うと「偏屈」になったんだろうな…(苦笑)。
だけど、それって可能性を自ら潰しているんだよなー。とは理解しています。
それで、ちょっと軌道修正したいなぁともがいているところ。
自分の意見をザクザク書いて、他者の全く違う意見に噛み付くやり方は愚かだと思うし、考えている=知的という事ではないよね。なんだかそこを錯覚するケースは多いと思うんだよ。
後、自分の意見を持って主張する事は確かに大事だけれど、相手の立場を慮れる人でいたいなぁと思ったり。難しいけれど。本当に難しいけれど。自分が大切だと思うのと同じように、誰かが自分の大切じゃないものを凄く大切だと思っている可能性を想う想像力が欠けていると、誰かを傷つけたり、傷つけあったりする争いが起こるんだと思う、よ。
自分のblogには確かに何をどう書いてもいい。でも、その尖った刃を(不特定でも)誰かに向けることは罪だ。色々考えてしまうと何も書けなくなるけれど。どんなに考えても、万人に優しい言葉なんてきっとないのだけれど。
誰でも読めるところに言葉を綴る以上は、せめて、色んな観点を持ちたいよなぁ。
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